視察

防災対策特別委員会 視察

稲むらの火の館視察

濱口梧陵は分家濱口七右衛門の長男として生まれたが本家の養子となり銚子での実家であるヤマサ醤油の事業を継ぎ社長となる。
安静元年(1854)、梧陵が帰郷していたとき、突如大震災が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。
梧陵は稲むらに火を放ち、この火を目印に村人を誘導して安全な場所へ避難させた。
故郷広村が壊滅してしまったのを見て、私財をなげうって広村の復興に身をこなにして働き津波から村を守るために高さ5メートル長さ600メートル余りの防波堤を築造しその後の津波による被害を最小限に抑えた人物である。その後大久保利通の命を受け、今で言う郵政大臣(駅逓頭)に任命される。
明治12年には和歌山県議会初代議長となり民主主義を広める活動を展開し欧州視察の途中ニューヨークにて永眠した偉大な人物であった。

昭和12年文部省発行、小学校国語読本(5年生用)に「稲むらの火」として梧陵翁が津波の時、村人を救った事蹟が搭載された。

1.稲むらの火の館にて
稲むらの火の館にて
2.館長より説明を受ける
館長より説明を受ける
3.濱口梧陵が私費を投入し作ったと言われる堤防にて祈念撮影
濱口梧陵が私費を投入し作ったと言われる堤防にて祈念撮影
4.未だに頑丈な堤防として活躍している
未だに頑丈な堤防として活躍している

石巻、女川町視察

テレビで何度も放映された女川町に着き、下から町立病院を見上げて、こんな高台にあるのにまさかあんな所まで津波が来るなんて・・・ただただ呆然と見るしかなかった・・・
津波の怖さを思い知らされた。
病院の高台から眺める町の景色は・・・本当にここに町があったのだろうか・・・
何もない・・あるのはコンクリートのビルが根こそぎ倒れていたり壊されたビルが残っているだけ・・・
木造家屋があったはずなのに全て瓦礫と化し、道路は地盤沈下のため未だ通行できず・・・
どうやって復旧.復興するのか・・・これはもはや国政の力なくてはどうにもならない状態であった。
にも関わらず民主党政権はいまだ何の手当もしないまま・・・
本当にやる気があるのか疑わしい政府である。

残ったビルも全て使い物にならない
残ったビルも全て使い物にならない
こんなコンクリートのビルまでが倒壊
こんなコンクリートのビルまでが倒壊
道路は沈下し未だに水の中
道路は沈下し未だに水の中
ここが一番の賑わった町の中心らしい・・・今はその面影もなく地盤沈下のため未だに水が溜まっている
ここが一番の賑わった町の中心らしい・・・今はその面影もなく地盤沈下のため未だに水が溜まっている
女川町立病院
女川町立病院
 

津波が襲った仙台平野

東北自動車道を境として海側は農地も家も全て消滅、黒いヘドロが農地一面を覆い、海水で何年間も稲の作付けが出来ないらしい。
一方内陸側を見ると収穫前のササニシキが黄金色に色づき刈り取りを待っている。
高速道路が内陸堤となり仙台平野を救ったのである。

徳島県も市議会時代から、避難困難地区にはどうしても高速道路ののり面に避難所を作って欲しいと訴え、県議になっても本会議で訴えた。
それが実り全国で初めて高速道ののり面に避難所が作られる事が決定した。

東北自動車道を境にして海側はほとんど家も流されている
東北自動車道を境にして海側はほとんど家も流されている
秋の収穫を迎えていると言うのにこれが本当に仙台平野なのかと…
秋の収穫を迎えていると言うのにこれが本当に仙台平野なのかと……
東北自動車道の内側では黄金色に染まった水田が広がっている
東北自動車道の内側では黄金色に染まった水田が広がっている
自動車道のお陰で津波の面影もない
自動車道のお陰で津波の面影もない

被災地の瓦礫の山

仙台市を走ると海岸に近い場所には所狭しと瓦礫の山が点在をしている。
少しづつは分別リサイクルしている所もあるが、こんなに沢山の瓦礫の山がいつになったら片付けが着くのか予想も付かない。
また放射能があるのではないかと受け入れて貰える県も無いのである。
ただただ一刻も早く東北地方の復興を祈るしか無かった・・・

瓦礫の山々1
瓦礫の山々1
瓦礫の山々2
瓦礫の山々2
瓦礫の山々3
瓦礫の山々3
瓦礫の山々4
瓦礫の山々4
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